コレイツィ、高麗人

2022-09-27
  • 展覧会名: コレイツィ、高麗人(Корейцы, Корё сарам)
  • 会場: 国立民俗博物館企画展示室2
  • 期間: 2022年9月7日(水)~2022年11月7日(月)
  • テーマ: 高麗人の生活文化とアイデンティティ

国立民俗博物館(館長金宗大)は韓国とウズベキスタンおよびカザフスタンとの国交樹立30周年を迎え、中央アジアの“高麗人”の日常を写した写真352点(写真作家ヴィクトル・アン=Виктор Ан寄贈)をもとに特別展「コレイツィ、高麗人」を開催します。
本展は、20世紀の歴史の荒波の中で中央アジアの見知らぬ土地に移住させられた韓民族同胞が定着と生存のために奮闘した日常の痕跡を紹介します。約60点の写真に写し出された高麗人の日常から現地の文化、高麗人の共同体が長年守ってきた伝統、そして遠く離れた祖国の影響で幾重にも重なったアイデンティティを形成してきた高麗人の自画像まで、高麗人が刻んできた歴史をまざまざとご覧いただけます。



高麗人の暮らしを捉えた写真作家、ヴィクトル・アン


写真作家は自分だけの言語やスタイル、テーマを見つけなければなりません。
私は80年代半ば頃に高麗人というテーマに関心を持つようになりました。
自分以外の誰がこの作業をするだろうかと考えた時、
自分でやる必要性を感じたからです。
- ヴィクトル・アン

ヴィクトル・アンはウズベキスタン国籍の写真作家で、自らも高麗人です。彼はソ連時代の1978年から高麗人のための民族語新聞『レーニンの旗幟(Ленин киӌи)』で写真記者として活動を始め、同じく民族語新聞である『高麗日報(Корё ильбо)』を経て、中央アジアなど旧ソ連地域の高麗人の歴史や暮らしぶりをテーマにした写真作品を制作しています。
高麗人の視点で高麗人の暮らしや歴史を捉えた彼の作品は、韓民族ディアスポラの研究に役立つだけでなく、これまで韓国内に所蔵されていない希少な資料という点でも価値があります。国立民俗博物館は当初からその価値を高く評価しており、「在外韓人同胞の生活文化調査:中央アジア」事業をきっかけに、2022年5月に同氏から352点の写真を譲り受けました。



身近なようで見慣れない文化


同展では「人生儀礼」「歳時」「食」「住居」など民俗の分野でよく使用されるキーワードで9つのセクションに分けて高麗人の生活文化を紹介しています。
人々がこれらの写真を見た際に共通して抱くであろう印象は、“身近なようで見慣れない”という矛盾したものではないかと思われます。これは高麗人の生活文化が、さまざまな文化を起源として、状況や環境に合わせて再構成されたものであるからです。そこには、咸鏡道など朝鮮半島東北地域の伝統や、ソ連時代の民族政策の影響を受けたロシア文化、ウズベク族やカザフ族など周辺の民族の文化、そして現地の自然環境を含むさまざまな要因の相互作用が生じています。韓国の人々が高麗人の生活様式か ら“身近なようで見慣れない”印象を受けるのは、韓国文化との共通点を見つけることができる一方で、全体的には非常に異なる形をしているためです。



「高麗人」というアイデンティティ


かつて高麗人は、自分たちの民族的アイデンティティを恥ずかしく思いました。
しかしあの頃、私たちは力を合わせて
自分たちの居場所と権利を勝ち取りました。
それは私たちにとってとても重要な時期でした。
- ヴィクトル・アン

ソ連時代から中央アジアで広く通用するロシア語では、韓国人も朝鮮人も高麗人もすべて「コレイツィ(Корейцы)」と呼ばれています1)。英語の「コリアン(Korean)」と同様に、ロシア語でも韓国人、朝鮮人、高麗人は明確な区別がなされていないのです。
それに対して高麗人たちは自らを「高麗人(Корё сарам)」と言います。これは、高麗人たちが自らを、自分たちの先祖である沿海州の朝鮮人や、祖国にいる韓国人とは別のカテゴリーの共同体であると認識していることを意味します。
この高麗人共同体を支えているのは、遠く離れた中央アジアの見知らぬ土地に強制移住させられ、生存と定着のために世代を超えて奮闘した記憶です。それは過去の朝鮮人も、現在の韓国人も持っていない高麗人だけの経験なのです。本展で公開された写真に見られるような、韓民族の伝統とロシアや中央アジアの文化が融合した生活文化は、苦しい移住と定着の物語が生み出した彼らの歴史です。
1) 韓国の人々によく知られているロシア語「コレイスキー(Коре́йский)」は「韓国の」という意味で、人を指す言葉ではない。




主な展示資料

水田で 
1979
ウズベキスタン・ナマンガン州

水田を背景に撮影した人物写真です。農具を持った2人のウズベク人労働者と、その間に立って指示する高麗人指導者の姿が写っています。農業で認められた高麗人の社会的地位を知ることができます。
アン・アナトリヤの結婚
1979
ウズベキスタン・シルダリヤ州グリスタン市

結婚式を終えた夫婦が新郎の家に向かう場面です。夫婦は人形やリボンで飾られた車に乗り、新郎の親族たちが案内をしながら踊っています。新郎新婦が車から降りると、親族は歓迎の意味でウォッカを一杯ずつ勧めます。
高麗新聞の広告
1999
ウズベキスタン・サマルカンドレギスタン広場

共産党の少数民族政策により、高麗人のための民族語新聞はソ連が解体するまでほぼ『レーニンの旗幟(Ленин киӌи)』しかありませんでした。写真の中の『高麗新聞』は、独立後のウズベキスタンで1997年に高麗人によって創刊された民族語新聞です。現在はほかにカザフスタンの『高麗日報』もあります。
「土中の家」のそばに立つアン・ヴィタリ
1981
ロシア・オレンブルク州アクブラク村

故郷を離れて農業に従事する人たちが一時的に住む家です。こうした人々は種まきをする3月に故郷を離れ、借りた農地の近くに作った「土中の家」で暮らし、収穫を終えて10月に故郷へ戻ります。
「チャルトギ」作り
1992
ウズベキスタン・タシュケント市ベクテミール地区

高麗人が「チャルトギ」(もち米で作られた餅)と呼ぶ餅を作る様子です。蒸したもち米を杵でつくのが、韓国の人々が「インジョルミ」(もち米から作る餅で、きなこをまぶしたものが多い)を作る姿と同じです。
トルジャビ
1994
ウズベキスタン・タシュケント州ボルシェビク集団農場

トルサン(子供の初誕生日に用意する祝いの膳)の上に置かれた品物の中から子供がどれを取るかで、その子の将来を占う風習です。韓国で行われるトルジャビと同じです。
高麗人のトルサンには、チャルトギ(もち米で作った餅)3つと、米と小豆がそれぞれお椀に1杯ずつ置かれます。
洪範図の胸像に花を捧げる高麗人
1995
カザフスタン・クズロルダ市

洪範図(ホン・ボムド、Хон Бумдо: 1869-1943)は、日本植民地時代に大韓独立軍総司令官、大韓独立軍団副総裁などを歴任した独立運動家です。沿海州で活動していましたが、1937年に現在のカザフスタン・クズロルダに強制移住させられました。 高麗人の誇りであり、尊敬される英雄です。
韓国人にとっても洪範図は独立運動の英雄として記憶されています。韓国政府は1962年に洪範図に建国勲章大統領章を追叙し、さらに、2021年に洪範図の遺骨を大田顕忠院(国立墓地)に安置するとともに改めて建国勲章大韓民国章を贈りました。
金炳華の胸像に花を捧げる高麗人たち
2015
ウズベキスタン・タシュケント州金炳華博物館

金炳華(キム・ビョンファ、Ким Пен Хва:1905-1974)はソ連で軍人や政治家として活躍した人物で、ポリャルナヤズベズダ(Полярная звезда)集団農場を指導して優れた実績を挙げ、1948年に「労働英雄」の称号を贈られました。その後、ポリャルナヤズベズダ集団農場は「金炳華集団農場」とその名を変え、農場の中に彼を称える記念館も 建てられました。