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タイトル 昆布とミヨクワカメ-潮香るくらしの日韓比較文化
会期 2019.10.2 ~ 2020.2.2
会場 企画展示室 1

展示概要
昆布とわかめ(ミヨク)。日本でも韓国でも、どちらもなじみ深い海藻で、古くから日々のくらしの糧とされてきました。一方で、儀礼食や贈答品という観点からは、日本では昆布が、韓国ではわかめが重要な役割を果たしており、異なる文化的意味を持っています。海底の岩に根を張って、長く青黒いその姿を揺らす昆布とわかめは、似ているけれども、どこか違う。違うけれども、どこか似ている。 この展示は「昆布」と「わかめ」に象徴される、海をめぐる日韓の民俗を対象として、2015年から2019年にかけておこなわれた日本の国立歴史民俗博物館と韓国の国立民俗博物館の共同研究の成果を元に企画されました。2020年には、日本の国立歴史民俗博物館でもおなじ内容の展示が開催される予定です。 展示の構成は、日韓両国の町の魚屋さんから出発して、海へと向かっていきます。第1部「海を味わう」では、海産物なしには維持することができない日韓の日常について探っていきます。第2部「海に生きる」では、私たちに海産物を届けてくれる日韓の漁師の技術と信仰について紹介します。そして、第3部「海を越える」では、海をめぐる日韓の日常が、近代を経て変化してきた様相を振りかえります。 本展示が、隣りあう日韓の人びとが相手の文化に対する理解を深めて尊敬の念を抱くとともに、けっして異文化として切り捨てることのできない親しさを感じる契機となることを期待しています。


Miyok and Konbu : a voyage into maritime cultures of Korea and Japan



* プロロ
日本人と韓国人。私たちはそれぞれ、どのような海産物をどのように食べているのだろうか。魚屋の店先には、お互いのかざらない日常がのぞいている。

1. 海を味わう
海に囲まれた日本と韓国。海産物は人にとっても先祖にとっても、神様にとっても、大切な食材である。

- 味の基本の海産物
日本人であれ韓国人であれ、海産物を食べない生活を想像できるだろうか。もちろん、おかずは肉があれば大丈夫、という人はいるかもしれない。けれども、海産物は目に見える姿をとどめて料理されているとは限らない。私たちは知らず知らずのうちに、海産物の味に慣れ親しみ、頼りきっているのだ。和食では、鰹やコンブのだしがなければ味噌汁一杯飲むことができないし、韓食では、エビやカタクチイワシの塩辛、タチウオの魚醤などがなければ、キムチを作ることもできない。和食も韓食も、味の基礎には海産物のうまみが重要な役割を果たしている。
ここでは、和食を支えるだしの文化と、韓食を支える塩辛の文化を取りあげる。日本からは鰹節と昆布の、韓国からはさまざまな魚介類を利用した塩辛の製法や製品を紹介しつつ、その歴史についてもひもといて
いく。
- だしの日本
だしとは、さまざまな食材を煮て、うまみを抽出した液体のことである。和食では、このだしを味噌汁や吸い物といったスープとして飲んだり、醤油などとあわせてうどんやそばの汁としたり、野菜などの煮物の煮汁として味つけに使ったりする。古代以来、公には獣肉を忌避する傾向にあった日本では、植物や魚介を用いただしが発達した 。
だしをとるための材料とされるものは多様であり、その加工方法もいくつかに分けられる。動物性の材料を使ったものとしては、カツオやマルサバ、ソウダガツオ、キハダマグロなどを煮て、焙乾(ばいかん)と黴つけを繰り返して乾燥させた節(ふし)、カタクチイワシやマイワシ、キビナゴ、アジなどを煮て干した煮干し、カタクチイワシやハゼ、トビウオなどを焼いて干した焼き干しなどがあげられる。山間部ではだしに川魚も使われるが、一般的には海の魚が中心となっていることが特徴である。一方、植物性の材料を使ったものには、干したシイタケやコンブがあげられる。
- 鰹節
節とは魚の身をさばいてから煮て乾燥させたもので、水分量を減らして保存性を高めると同時に、うまみ成分を凝縮したものである。鰹節は、その名のとおりカツオを原料に作った節である。何度も燻し、それにカビ付けを繰りかえすことで水分が飛んで固くなった鰹節を専用の削り器で薄く削り、それを湯で煮ることでうまみを抽出する。焙乾の技術は17世紀中ごろにはすでに開発されており、17世紀後半にはカビ付けもおこなわれるようになった。カビ付けには腐敗カビを防ぐ役割もある。 日本人は古くからカツオのうまみに注目していた。古代官人の業務マニュアルとして10世紀に編纂された法制書『延喜式』(えんぎしき)には、カツオを煮て干した「煮堅魚」(にがつお)や、カツオの煮汁を煮つめた「堅魚煎汁」(かつおいろり)の名が見られる。15世紀末になると、料理書『四条流庖丁書』(しじょうりゅうほうちょうしょ)に「花鰹」が登場し、このころからカツオの節がだしとして使われはじめたことがうかがえる。
- 昆布
昆布だしは、鰹だしと並んで、和食の味を代表する存在である。コンブは寒流域に生息する海藻であるため、北海道から東北地方にかけてが産地となる。10世紀の法令集『延喜式』には昆布の定期的な貢納と宮廷での消費が記され、当時すでに、北国から京都までコンブが運ばれていたことがわかる。ただ、その食べ方ははっきりとせず、だしとして使われたことが確かなのは15世紀後半からである。
コンブは生息する地域によって種類が異なり、味や風味にも差がある。北海道南部の函館周辺に分布するマコンブはうまみと甘みが強く、だし用にも具材用にも良い。北海道北部の利尻島周辺に分布する、マコンブと同種のリシリコンブは、淡白で上品な味わいから最上級のだし用コンブとされる。北海道南部の日高地方に分布するミツイシコンブは具材用に適しており、北海道東部の羅臼周辺に分布するオニコンブからは、濃厚なだしがとれる。コンブの加工は、海から採取して乾燥させるだけである。そのぶん、コンブの種類と品質が味に大きく影響する。また、一年以上寝かせることで、うまみは格段に強くなる。
- 塩辛の韓国
塩辛は海産物を多量の塩に漬けて作った保存食品である。塩辛は、腐りやすい魚介類を長期間保存しながら食べられる、効果的な手段である。発酵の過程でたんぱく質がアミノ酸に分解されてコクが一層増し、独特の風味を醸す。使用する魚介類やその部位、季節、地域によって塩辛の種類は、100をはるか にこえる。
韓国の南海岸地域では、脂肪の含有量が高いカタクチイワシやタチウオなどが、中部地域では、脂肪の含有量が低いキグチ、エビなどが塩辛の原料として好まれる。ただし、北部と東海岸、内陸地域では、気候や原料の入手の問題などの理由によって塩辛の文化が大きく発達しなかった。
韓国で塩辛はキムチを漬けるときに使ったり、ご飯のおかずとして消費されてきた。キムチ用には、おもにエビ、カタクチイワシ、キグチ、タチウオの塩辛などが使われる。この中で、エビの塩辛とカタクチイワシの塩辛が最も広く流通している。塩辛は野菜を主原料とするキムチの栄養素を補完するとともに、キムチが家ごとに違う味を出すことに重要な役割を果たしている。
-儀礼と海産物
殺生を禁じる仏教の儀礼を除いて、多くの日本の儀礼では海産物を欠かすことができない。神を迎える祭りでは、魚や貝や海藻が供えられ、人生儀礼などにともなう贈答品には、熨斗(のし)と呼ばれる干した魚介類がそえられる。その背景には、海産物が貴重な存在であると同時に、海の塩が儀礼の場を清める、という考え方がある。また、さまざまな魚介類を用いた熨斗は、仏教の儀礼ではないことを象徴する。
一方、韓国の祭祀・宴会・婚礼などでも、海産物が頻繁に使われている。地域別に少しずつ異なるが、祖先祭祀だけでなく宴会でも、さまざまな種類の海産物が使われる。これは単なる食の嗜好の問題ではなく、ある海産物がないと祭事や宴会自体が成り立たないことを意味する。また、多くの韓国人は、出産直後や誕生日にワカメスープでもてなすことを大切にしており、みずからの健康のためにも必ず食べる習慣がある。
- 韓国の儀礼と海産物
地域によって、家によって、儀礼につかう海産物は多様である。鱗がない魚や泥臭いボラは祭祀の膳にあげない地域が多いが、京畿地域の沿岸の祭祀では、ボラが最も重要となる。嶺南地域の内陸ではタコとサメを発酵させた「ドムベギ」が使われる。一方、全南地域の沿岸では、テナガダコと乾燥させたサメが使われる。通常、西海岸より南海岸で、内陸より沿岸で、より多様な海産物が頻繁に使われている。しかし、慶北地域の安東や全南地域の求礼のように、海岸から数百キロ離れた内陸でも、海産物は儀礼の必需品である。
 また、婚礼などの宴会でも海産物は欠かせない。湖南地域でハイガイや発酵したガンギエイを宴会料理として出すことは有名である。慶北地域では通常、エイとタコが宴会料理として多く使われており、慶北地域の浦項ではマンボウが欠かせない。
- 祭祀と婚礼の必需品としての海産物 
... いわゆる「儒教式の祖先祭祀」には必ず海産物を使う。全国的に用いられる海産物はイシモチ、スケトウダラ、マダラなどである。近年まではニシンが最も広く使われる海産物のひとつであった。朝鮮時代に大きな手柄を立てた人物に対する国家による祭祀には、魚・肉(牛豚)・鶏肉が欠かせなかったが、それは海・陸・空、つまり世界を象徴する物を先祖に供えることを意味する。
-出産とわかめ
...ワカメを具材のひとつとして使う日本料理とはちがい、ワカメを具材の主役としてたくさん使ったワカメスープは、出産儀礼だけでなく、韓国人が最も日常的に消費する料理のひとつである。養殖ワカメの消費が増えた現在も、産婦用には天然のワカメが好まれる。産婦用のワカメは、通常90cm以上に長く継ぎ合せた長方形に乾燥させる。ワカメは地域ごとに味が異なるが、過去には全南地域の莞島、慶南地域の機張と蔚山、慶北地域の蔚珍などが有名な産地であった。どの地域でも、漁民たちは自分の地域のワカメが最もおいしく有名であると主張する。
- 日本の儀礼と海産物
正月を迎えるにあたって、何らか海の魚を食べなければならないという習俗は、日本全国に見ることができる。地域によってマダラ、ナメタガレイ、シイラ、マイワシなどの魚が年取り魚とされているが、現在、最も一般的なのは東日本ではサケ、西日本ではブリである。年の瀬になるとスーパーの鮮魚売り場にはサケやブリが並び、高級な塩引鮭や大きなブリが歳暮の品として贈られる。興味深いのは、海から遠く離れた山間地域でも、必ずサケやブリを食べることである。日本の最も山深い地域のひとつである長野県でも、サケやブリがなければ年を越せないとされている。
熨斗は、もてなしや祝いの儀礼には欠かせない海産物の加工品である。熨斗といえば、アワビの身を薄く、長くむいて、乾燥させた熨斗鮑が著名である。古代以来、貢納品として、あるいは最高級の贈答品として珍重されてきた。現在も伊勢神宮の神饌となっているほか、模造品の熨斗鮑を紅白の紙で包んだものが、結納などの儀礼で贈られる。また、より日常的には、菓子などの贈答品の箱に熨斗を印刷した紙がまかれ、お祝いの金を包む袋にも熨斗が印刷されている。

2.海に生きる
  海は人知を超えた自然である。安全に、確実に、多くの海産物をえるためには、長い年月をかけて蓄積された知識と技、そして、神霊に対する謙虚さが必要となる。

- 漁師の技
韓国と日本の海の環境をみると、似ている部分と異なる部分がある。自然環境が似ていて、日韓どちらでも好まれるおなじ魚介類をとる場合には、両国で類似した漁法が発達する。一方、自然環境が似ていても、両国の人びとが好む魚介類が異なれば、漁法も異なることとなる。また、日本の太平洋や韓国の西南海岸の干潟のように、それぞれ独特の自然環境においては、当然、生息する魚介類の種類は異なり、両国で発達する漁法も違ってくる。
ここでは、まず、日本のコンブ漁と韓国のワカメ漁を例に日韓の磯漁を比較するとともに、黒潮の海、太平洋で営まれる日本のマグロ漁と、韓国の西南海岸の大きな潮汐を利用して営まれる干潟漁の様子を紹介する。
- 磯の漁
磯にはさまざまな貝類が棲み、海藻が成長する。磯を餌場とし、磯の陰を好む魚類も集まる。日本でも韓国でも、磯は重要な漁場である。
日本の磯では海女や海士が潜水漁をするほか、小型の船に乗って箱めがねで海中をのぞき、見つけた獲物を竿状の漁具を使ってとる見突き(みつき)漁がおこなわれる。日本の見突き漁には、ワカメを春先の漁期にとるなど、限られた時期に特定の魚介類をとる場合と、アワビやコンブなどの比較的高価な海産物を中心としながらも、一年をとおして、季節ごとにさまざまな魚介類をとる場合とがある。後者の場合、海中におろされる竿の先には、漁獲対象にあわせて工夫をほどこした、多種多彩な漁具が取りつけられる。
一方、韓国の磯漁には、済州島と西南海の一部の島での、海女によるアワビやナマコ、海藻などの採取や、干満差の大きい西海での、鎌などの簡単な道具をもった徒歩による採取などがあるが、最も広くみられる磯漁は、江原地域から慶北地域までの東海岸一帯の「テベ(筏)」による漁である。東海岸では、テベはワカメの採取だけに使われた。南海岸の島嶼でもテベが使われたが、ここではワカメだけでなく、肥料用の海藻採取や簡単な釣り漁にも使われたため、やや大きかった。
-日本のコンブ漁と韓国のワカメ漁
天然コンブの漁法で最も一般的なのは、船から竿をおろしてコンブをからめ、ねじり取る方法である。竿先の形状は多様であり、昆布の生育する深さによって使用する漁具も変化する。青森県の下北半島では、一般的には木製のオサオ、マッケから鉄製のコンブネジリに変化し、現在ではグレンカイが多く使われている。水深10メートル以上の海底に生えるコンブをねじり取るため、竿には強い負荷がかかる。そのため、竿の材には強いヒバやシウリ材が使われた。
  韓国のワカメ消費の歴史は非常に長く、広範であり、ワカメの採取を磯漁の唯一の目的とするところが多かった。東海岸に多い天然ワカメの漁法は「テベ」や小型漁船に乗って、岸近くの磯で、眼鏡で水中を見ながら、鎌を付けた長い竿を水に入れて採取する方法であった。かつては、「トゥリ」と呼ばれる道具を使って、船の上から鎌で採取しにくいところに生えるワカメを採取した。
一方、海に潜ってコンブやワカメを鎌で刈る漁法や、切れて岸に打ち寄せられたコンブやワカメをカギザオで引きよせる漁法などは日韓で共通している。ロープを結んだ錨のような漁具を沖に向かって投げる漁法も、日韓同じである。
- 潮水と干潟
日本にも干潟はあるが、韓国の干潟は比べ物にならないほど広大である。韓国では、磯や干潟の上に設けられた漁具に対しては、早くから一種の個人所有権が発達したが、干潟そのものに対しては、とても広いために所有意識がめばえなかった。しかし、20世紀に入って干潟の海産物の商品化が進むと、排他的な干潟の所有意識が生じはじめた。養殖漁場が早くから発達した海岸では、たとえ法的には村の共同漁場であっても、世帯別に分けて所有する慣習が発達した。
ここでは、干潟漁として全南地域の順天湾でのいわゆる潟スキーによる漁と、西海岸のテナガダコ漁を紹介する。日本ではテナガダコの消費は多くないが、韓国ではテナガダコは礼儀品として使われ、高額で取引される。
- 太平洋とマグロ漁
日本は世界有数のマグロ好きの国である。縄文時代の貝塚からのマグロの骨の出土例からは、日本人が古くからマグロを食べていたことがわかると同時に、岸のすぐ近くでマグロが獲れたこともうかがえる。現在、マグロは延縄、巻き網、定置網、一本釣り等の漁法で獲られている。マグロは温帯から熱帯海域に生息し、日本近海の太平洋ではクロマグロやメバチ、ビンナガ、キハダなどが獲れる。クロマグロは日本海も回遊する。マカジキやメカジキはマグロとは別種だが、一般的に日本ではマグロの一種として認識されており、延縄や突きん棒で漁獲される。近年、マグロの生息数の減少が問題となっているが、養殖されたクロマグロから採取した卵を育てる完全養殖の技術も開発されている。
- 漁民の信仰
信仰の対象は互いに異なるが、日本の漁民と韓国の漁民はともに海を恐れ、人知を超える力を畏敬してきた。
多くの韓国の漁村では、風や雨をつかさどり、漁民の海上安全を保障する海神が一番重要な存在であった。海神よりは地位がさがるが、海の魚を支配する竜王も大切な存在であった。しかし、漁民がもっとも親しみを抱く対象は、海神と竜王の間で人間に味方する将軍神や、人間の要求によって魚を追い込んでくれる「トッケビ(鬼)」であった。その他にも、個々の漁船や漁民を保護する神も存在した。
一方、日本の漁師たちは村の神社や海岸のそばの小さな祠で、家の神棚で、船の中で、さまざまな神仏を祀ってきた。海そのものを支配し、海上安全や豊漁をつかさどる海神や竜神、船に祀られて危険を知らせる船霊(ふなだま)、そして、豊漁をもたらすエビスなどがその例である。また、金刀比羅宮や那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)など、海上安全や豊漁をつかさどるとして、全国的に漁師の信仰をあつめる社寺も存在する。
- 村の信仰
楸子島は、かつて全羅南道霊岩郡、済州牧、莞島郡などに属していたが、1914年以降、済州島に属するようになった。映像は旧暦大晦日から2月1日にかけておこなわれる楸子面大西里の村祭りである。村祭りは山神祭・将軍祭・竜王祭・献食祭で構成され、韓国西海岸と南海岸の漁村の祭りの典型的な構造を示している。漁業に関しては、「魚呼び」の儀礼や、崔瑩(チェヨン)将軍(1316~1388)の神としての役割が強調される。また、海で亡くなった先祖や竜王を祭る「献食際」は南海岸でよく見られる祭りの形態で、正月と小正月の2回にわけて盛大におこなわれる。猟師が交わす滑稽な漫談は祭りの見どころである。
佐田神社の祭りは、四国の東端に位置する徳島県阿南市椿泊から、9月の第2週の金曜日から日曜日にかけて行われる。かつては、沖合い漁業に出ていた地元の漁師も、この祭りの期間になると、必ず戻ってきた。住民は佐田神社を出発した「神を遷した神輿」を担いで、地区ごとに決められた場所に止まって祈願と休憩を繰り返しながら村を回る。神輿は、漁民の信仰や海上安全と関わりの深い金比羅神社、竜王神社、恵比寿神社に立ち寄る。「神の意志」により神輿が海に入ることもある。2日目には、 神輿を船に乗せ、蒲生岬の近くまで行き、海上から岬神社に向かって祈願する。これを「岬祭り」と呼ぶ。
- 竜宮と竜王
海産物を海にすまう竜の神に与えられたものだとする漁師の信仰は、日韓両国に共通する。その背景として、中国を含む東アジア全体に広がる、水をつかさどる神としての蛇や竜に対する信仰を想定しなければならない。しかし、こうした信仰が、日韓両国でそれぞれ異なる形で発展した点にも注目する必要がある。
日本では、12世紀に成立した『今昔物語集』などの中世説話集に竜宮が登場し、その後、亀を助けた男が竜宮城で乙姫に歓待され、土産をもらって地上に戻るという「浦島太郎」の話が広く知られるようになる。海中の異郷の神から富をえるという話が、大漁を願う漁師に受けいれられるのはごく自然なことであり、このモチーフが絵画化されるようになる。
一方、日本とは違って、韓国の漁村では竜宮の具体的なイメージはあまり可視化されていない。竜や蛇が神格として現れることもあるが、それは天と関わりのある神なので、竜王とは区別する必要がある。竜王は、人間の世界と海の向こうの世界、魚の世界をつかさどる。地域別に形は異なるが、漁師は毎年魚を恵んでくれ、そしてこれからも恵んでくれる竜王に、そして、人間と竜王との媒介者であるトッケビに対する供え物を海に流し送る。
- 将軍とエビス
両国の漁民の信仰には、それぞれ独自の神格もうかがえる。
江原地域の沿岸を除く韓国の多くの漁村では、将軍神の役割が顕著にあらわれる。将軍神は海神をあがめて漁民を保護し、海神の支配下にある竜王に代わって(あるいは海神をとおして竜王に指示をして)魚を追い、大漁をもたらす存在である。こうした将軍神の背景には、朝鮮後期に海岸防衛に大きな関心が払われた歴史がある。 武官が支配する沿岸部や島で将軍神の役割が強調されたのは自然なことであった。
一方、日本ではエビスと呼ばれる神が広く漁民の信仰を集めてきた。エビスの語は遠い辺境の地から来訪した荒々しい神を意味し、日本の神話では、船で海の彼方に流される神でもある。このエビスを、漁民は海の彼方から恵みをもたらす存在と考えた。海中の石を拾ってエビスの神体としたり、魚群を追ってやってくるクジラやサメなどの大型の海洋生物をエビスと呼ぶ習わしからは、エビスを来訪神とする感覚がうかがえる。

3.海を越える
太古以来、多くの人びとが海を渡って日本列島と朝鮮半島を往来してきた。両岸の関係が良いときも、悪いときも、人とともに技術と文化は海を越えた。

- 東アジアの近代と日韓漁民の接触
19世紀前半まで朝鮮と日本の間の民間交易は非常に限定的だった。その後、1854年に日米和親条約を締結して開国した日本は、1876年に朝鮮との間に日朝修好条規を結び、朝鮮を開国した。こうして日本と朝鮮が世界に門戸を開いて以降、日本は帝国主義的な膨張を続け、韓国をはじめとする東アジアの海産物の流通網と市場を再編していった。
このような動きは、朝鮮と日本の沿岸に居住していた漁民に大きな影響を及ぼした。開国後、国内外の交易が次第に自由化されると、日本の漁民は、日本に近く、自然環境も似た朝鮮の海で、積極的に商業的な漁業活動をおこなうようになった。両国の漁民の接触は、文化的なとまどいや経済的な利害対立を招いたが、とくに朝鮮の漁民は「民族的な葛藤」を抱えることとなった。
他方、漁撈文化や技術などでは、互いに影響を与えあう側面もあった。第3部では、近代における韓日漁業技術の伝播と文化の変容、そしてその能動的な受容の過程に注目する。
- 日本人漁民の越境と朝鮮漁民との葛藤
日本の開国当初、日本人漁民が朝鮮半島近くまで漁に出ることは必ずしも多くはなかった。しかし、1889年の日朝通漁規則の締結などを背景として、日本人漁民が活動の規模を拡大させるようになると、朝鮮人漁民との間でアワビやナマコの漁獲などをめぐって、しばしば対立が起きるようになった。日本の影響力が強くなるにしたがって、韓国人漁民の立場は悪化した。多くの場合、両者の衝突は、韓国人漁民にとって不利な結果に終わった。
- 伊吹島の漁師たち
香川県観音寺市伊吹島は、カタクチイワシ漁と煮干し製造など、漁業と水産加工をおもな生業とする島である。この伊吹島漁民も、20世紀前半には日本が植民地化した朝鮮への通漁、移住をした。漁民をはじめとする日本人の移住が奨励されたこともあり、日本人の移住者が増えていった。朝鮮での伊吹島漁民の初期の主要な漁業は、主に慶尚道方魚津、九龍浦を拠点としたタイ・サバの縛網漁だった。タイやサバは朝鮮漁民が在来漁法でほとんど漁獲しない魚種であるため、朝鮮では市価が低く、おもに日本市場に向けて出荷された。
1930年代に入ると咸鏡道長箭、新浦、江原道元山に拠点を移し、機船巾着網によるマイワシ漁に転換する。漁獲したマイワシの大部分は、朝鮮北部の工場で加工され、油肥、〆粕等の肥料として日本市場を中心に出荷された。漁業や加工業の近代化や朝鮮半島における労働力の獲得、そして、北海道でのニシンの不漁等を背景に、マイワシ漁は莫大な利益を生んだ。製造加工品の大部分が肥料だったが、食用の塩魚や缶詰、油脂製品等への再加工もおこなわれ、爆弾の原料となるグリセリンの製造など、一部は軍事利用にも供された。
-東アジアの海産物流通とカタクチイワシ
近代における日韓の漁民の移動は、基本的に漁民自らが主体的におこなったものだが、広い視野でみると、東アジアの海産物をめぐる流通システムも大きな影響を与えていた。 日本では開国以来、海産物の輸出が自由化され、ナマコ(煎海鼠)・アワビ(干鮑)・サメ(鱶鰭)・コンブ(昆布)など、中国向けの海産物が日本人漁民の主要な漁獲対象となった。また、タイ、サワラ、カタクチイワシなどの日本国内向けの海産物も重要な漁獲対象であった。
なかでも、朝鮮のカタクチイワシは日本に最も多く輸出された。カタクチイワシは肥料にする素干しの干鰯(ほしか)と、煮てから干す料理用の煮干しに加工された。朝鮮人漁民は、 開国以前から国内消費用に素干しを生産していたが、開国以降、より多くの素干しを生産して農業用肥料として輸出するようになった。一方、だしなどの材料とする煮干しは、日本人漁民が慶南地域の南海岸で直接生産して輸出した。太平洋戦争の終戦後、煮干しは韓国人の味覚をとらえ、現在では非常に広く消費されている。
- 坂村の漁師たち
広島県坂町の漁民は、朝鮮海出漁としては比較的早い時期の1880年代から、さまざまな漁法をたずさえて慶尚道等の朝鮮南部への通漁をおこなってきた。その中で、安定的に継承されていったのが、カタクチイワシ漁と煮干し製造であった。鎮海湾がカタクチイワシの好漁場であることに目をつけた坂の漁民は、統営、釜山、馬山等の近郊に住み、権現網(ごんげんあみ)と呼ばれる船曳網で漁をした。当初は、朝鮮人の住まない村はずれの海岸に乾燥小屋を設けて、獲ったカタクチイワシを煮干しに加工した。春、秋の漁の繁忙期には、多くの人が坂町から乾燥作業の手伝いに訪れた。やがて、経営規模の拡大に応じて、出身地からの手伝いでは人員が足りなくなり、地元朝鮮の住民を船や乾燥場で雇用するようになった。
- 漁民の移動と文化 変容
19世紀に両国が開国して以来、日韓の漁民は新たな漁業の機会を求めて他国の海への危険な旅に出るようになった。両国の漁民の関係は、最初は、日本人漁民が朝鮮近海で操業しながら生活に必要な物資を購入したり、朝鮮人漁民が漁獲した海産物を日本人に販売したりする程度であった。しかし、日本に準じた漁業制度が朝鮮で導入され、日本で移住奨励政策が推進されるようになると、日本人漁民のなかには朝鮮半島に進出して朝鮮人漁民を雇用するなど、漁業経営を拡大する者もあらわれた。また、日本人漁民が朝鮮人漁民に技術や漁具を伝えることで 、相互に依存する関係も生まれた。済州海女のように日本に出漁する人びともあらわれた。
この過程で、日韓の漁民は互いに新しい技術や文化を学び、これをみずからの生活環境にあわせて主体的に受け入れていった。今、日韓それぞれの日常のなかに変化を経ながら溶けこんでいる技術と文化は、複雑な日韓近代史のなかで活躍した漁民が残した「交流の証」なのである。
- 韓国の漁り歌の変化と受容
歌が混じるのは、出会いと疎通の結果である。 日本人と朝鮮人の漁民が海で一緒に働くことになると、漁り歌も自然に混じり合うようになっていった。一緒に歌いながら、お互いに影響を与え合い、新しい歌詞やメロディーなどを作り出すことになる。とくに日本植民地時代、朝鮮において日本の漁り歌は、一方向的かつ急速に受容されていった。そうした背景から、韓国東海岸の一部の漁り歌には、日本の影響が残っている。
しかし、意味の分からない言葉は継承されにくく、共感できない音楽は長く歌い続けられない。結局、年月が経つにつれて、東海岸の漁師は日本人に教えられた漁り歌を、なじみやすい歌にゆっくりと変えていった。最初は拍子とメロディーを変えて、次に歌詞も一部変えた。 東海岸の伝承漁り歌、北海道地方の漁り歌。日本語が残存する東海岸の漁り歌をつうじて、漁り歌の伝播と受容の過程がうかがえる。
- 海女とヘニョ
日本人海女の朝鮮半島への出稼ぎ漁業は、北海道から沖縄まで、豊富な出稼ぎ漁業の経験を有していた三重県の鳥羽と志摩地域の海女によって1893年ごろ始まり、1900〜1925年ごろに最も活発に行われた。彼らは済州島、釜山、元山などに根拠地を置いて、主に朝鮮半島の南海岸から東海岸にかけて操業した。アワビ、ナマコ、テングサなどを採取し、加工して日本や中国に輸出した。初期には血縁や地縁の集団で朝鮮半島に向かったが、1897年以降には、大阪や中国地方、九州地方の経営者に雇われるようになった。
一方、済州島内で活動していた済州海女は、19世紀末から済州島の外に活動範囲を拡大させた。済州海女がはじめて出漁したのは、慶尚南道の蔚山と、釜山の機張の海であった。海女が故郷を離れるきっかけとなったのは、済州島沖に日本人による器械潜水漁が入って資源が枯渇したからであった。一方で、朝鮮半島の沿岸では、もともと商品性が低く地元民が採取技術を持たなかった海産物が開国以降に脚光を浴びはじめ、それを採取することができるようになったのである。日本の漁村で海女が不足すると、多くの済州島の海女が日本に出稼ぎ漁に行き、定着する人もあらわれた。また、朝鮮における済州島の海女の出漁地域は咸北地方まで拡大し、中国の青島、大連、ロシアのウラジオストクにまでいたった 。
- 技術の移動
生活の豊かさを直接左右するなりわいの技術は伝わるのが早い。今では当然のように使われている水中メガネは、沖縄本島の糸満の漁民が追い込み網漁のために発明したとされている。その水中メガネは、日本の海女の漁に採用され、日本の海女の出漁をとおして、済州島の海女にも伝わる。水中メガネの導入で、漁の効率は著しく向上した。
- 文化の変動
朝鮮半島に出漁した日本の海女にも変化がみられる。朝鮮半島でのアワビやナマコなどの採取の担い手となった三重県の海女を描いた1880年の絵図をみると、その姿は上半身が裸である。いつから現在のようにシャツを着るようになったかは明確ではないが、その背景には、肌をさらすことを忌避する朝鮮半島での経験があると考えられている。
- 交流の証
千葉県の房総半島には「チョウセン」と呼ばれる海女の潜り着が残されている。朝鮮半島から来た海女に作り方を習った日本の海女が着ていたもので、脱ぎ着が簡単でゆるみにくく、便利だったという。一方、現代の済州島で海女のために作られるウェットスーツの生地は日本製だ。今も房総半島で潜る済州島の海女は、わざわざ済州島で仕立てて取り寄せている。

*エピローグ
朝鮮で伝統的に食べられてきたスケトウダラの卵、すなわちたらこの塩辛「ミョンランジョッ」は、20世紀初頭には日本でも食べられるようになる。そして、太平洋戦争後の福岡で、釜山で育った人の手によって、たらこを調味液に漬け込んで作る日本式の「明太子」が開発され、日本中に広まったとされる。これが韓国の「ミョンランジョッ」にも影響を与えた。塩辛文化とだし文化の融合である。
今、スケトウダラはロシアやアメリカの漁船がオホーツク海やベーリング海でとっている。しかし、たらこのおもな消費国は日本と韓国である。シアトルや釜山の港に日韓の業者が集まって、ともにスケトウダラの卵を競り落とす姿は、近代の交流の歴史を示している。

掲載日 2019-10-01